読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画『勝手にしやがれ』

勝手にしやがれ [DVD]

  はじめてゴダールの映画を観た。おもしろかったといえばおもしろかったし、なんとなく格好いいし、ストーリーも把握できたつもりだけど、なぜか、サッパリ意味がわからない、という感想が出てきてしまう。どこがわからないのか、この映画において意味とはなにか、何がわからないのかもわからない。どうしようもないな......

 フランス語がちょくちょく聞き取れて嬉しかった。フランス人の髪ってやわらかそう......まあ、それが今の感想かな......困ったな。

 

 全然1ミリも関係ないんだけど、堀(未央奈)ちゃんの岐阜弁が可愛すぎるんやが。

映画『時をかける少女』

時をかける少女

  1983年の大林宣彦監督による、原田知世主演のバージョン。原田知世は当時15歳。私的にはかなり好きな映画。あまりにも有名な作品だし、大林宣彦だし、原田知世だしで、めちゃくちゃ権威のある映画かと思って、まわりの知人たちに観てもらったら、かなりの不評で、結構ビックリした。演技が下手すぎる、話の筋が出鱈目すぎ、途中で笑わせにきてる、などなど。まあ、完全にそうだと思いますよ、私も。でも、それを超えるものがあるわけじゃないですか。胸に迫るものがあるわけじゃないですか。その欠点が、あきらかに、ひとつの調和をもたらしている。間違いなく、記憶に焼き付いて、これからさきの人生の折々で、何度となくフラッシュバックしたり反芻したりするような映画なんですよ。あ、これ『時をかける少女』じゃん!みたいな。演技下手だと思うけど、ほかの80年代の日本映画観たら、だいたいみんなこんな感じのしゃべり方だし、80年代の日本人はリアルでもこういうふうに話してたんじゃないかな、と思わなくもないです。でも、そんなことはどうでもいいではありませんか。原田知世がかわいいのだから。しかし、性的過ぎなくもないですけどね。撮り方が、完璧にいやらしいですよね、いちいちが。思春期の少女の性的な戸惑いみたいなものがテーマらしく思えたので、当たり前かもしれませんが。あまりにも有名なエンドロールの、原田知世が「時をかける少女」を歌うところ。最高です。もうそれだけで最高なんです。いいんです、それで。

『風の歌を聴け』

風の歌を聴け (講談社文庫)

村上春樹著『風の歌を聴け講談社、1979年。

 

 第22回(1979年)群像新人文学賞受賞作。選考委員は、佐々木基一佐多稲子島尾敏雄丸谷才一吉行淳之介。受賞当時、村上春樹30歳。

 私は『風の歌を聴け』をほとんど偏愛しています。気が向いたときに、何度となく読み返してきました。というほどは読んでないんですが、偏愛しているのは本当です、というふうに自分のなかでは諒解しています。でも、読んでないといったって、今回を含めて四回くらいは通しで読んできたと思う。適当にパラパラとめくってみてもきた。だけど、毎回しばらくして、内容を思い出そうとしても、鮮明にはディテールを思い出せません。なんとなく、読んだときの感傷があるような気がするだけです。夏の終わりの寂しさが、テーマというかなんというかそういうものだと思いますが、その寂しさの印象が、『風の歌を聴け』への私のすべてです。印象でしかないといえばそうなんですが、個別のエピソードの積み重ねが、なにかを完璧にとららえています。スキー場とかそういう旅行先の売店でよく売っている空気の缶詰みたいなかんじです。べつに、なかに何か入っているわけでもないけども、間違いなく、そのときの、感情とか目に入ってきた映像とかを一瞬にしてフラッシュバックさせるような、そういう力があると思います。永遠に・その・時・が・ある。からこそ、何度も何度も再読を誘う作品であるのだろうと。しかし、個人的な問題として一つあるのが、『風の歌を聴け』を愛しているだけで、その後の『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』などなどにつながっていかないことです。私は、根本的に好奇心というか知的向上心が欠如していて、こと生活に関しては非常な保守性を示す性質らしい。無理矢理に一回でも読んでしまえば、もう慣れてしまって楽しめるんだけど、そこまでに心理的な障壁がかなり。ここまでは読んだぞ、と記録するためにこのブログをはじめたので、ここから進んでみたい。強迫神経症っぽいと勝手に思ってます。強迫神経症についてべつに何も知りませんので、妄想ですが。と、いろいろ言ってきましたが、『風の歌を聴け』にも違和を感じる部分もかなりあります。第一、鼻に付くことは否定できませんな。『砂の女』とタイムラグなしに読んだんですけど、『砂の女』と比べると、どうでもいいことをグチグチ言いやがって、と思う部分がかなりある。「ほかのひとのことなんて、どうでもいいじゃないですか」と、ただ働くような姿と比べると、甘えやがってと感じてしまう。『風の歌を聴け』は、若者を扱った小説なんで当たり前かもしれませんけどね。それに、倫理的にどうなんだ、と思うようなところが散見されます。そのなかでも、今回はじめて気づいたのは、中国人のジェイに対する軽口でした。と言っても、小説内では直接ジェイに言っているわけではありませんが。ジェイは中国人なのに「僕」よりも日本語が上手い、みたいなことを言っているわけですけども、話を後半まで読み進めてみると、ジェイは中国には一度も行ったことがないらしい。おそらく、というか確定だと思いますが、ジェイは日本生まれな訳です。それならば、ジェイが「僕」よりも日本語が上手くったって、なんの不思議もないではないか。みたいなことがちょっと引っかかったりしてみたり、自殺の扱いどうなんだとか色々ありましたが、そんな傷は大した問題ではない。私は『風の音を聴け』が好きなんです。

『砂の女』

砂の女 (新潮文庫)

安部公房著『砂の女』新潮社、2003年。

 

 第14回(1962年度)讀賣文学賞小説賞受賞作。選考委員は、矢鱈に多いので省略。受賞当時、安部公房38歳。新潮文庫の解説は、ドナルド・キーン

──3、4年生の時に何があったのか気になるところですが(笑)。暗くて重い本というところで、“最近ハマった作家”が安部公房というのも納得です。

齋藤 そうなんですよ。最近読んでハマってしまいました。

──ちなみに何を読まれたんですか?

齋藤 『砂の女』を初めて読んで、“なんだこれは?!”と。今まで貫井さんがトップだったんですけど、一瞬で並びました。

https://otocoto.jp/special/honyomi-otome001/2/

というインタビュー記事をたまたま見て、読んだ。中学生くらいのときにかなり序盤で投げ出して以来です。読んでみたら、ビックリするくらい面白かった。なんでこんなに面白いものを放棄したのか今となってはサッパリわからない。はじめから終わりまで、ずっと面白い。砂の穴の底の家で女と主人公「彼」が二人っきりという場面が多いから、だれそうなものだけど、全くそんなことはなくて、ノンストップでハラハラする。一気に読みました。寓話的という感じは、安部公房の作品に共通なんだろうけど、今回は、

世界が、裏返しになって、突起と窪みが、逆さになったのかもしれない。

という一文が、『砂の女』を要約しているんではないかと思ったりもしてみた。こっちからはこう見えるけど、あっちから見たら、こっちもあっちにとってはこうだ。みたいな思考が繰り返される。メタ的な考えが回り続ける。結局、みんな頭おかしいじゃん!!!それは、勿論、読者も含めて。

 というふうに、『砂の女』が何を意味しているか、のように解釈してみるのも楽しいんですけど、『砂の女』が小説であるからには、やはり、意味を解釈することからこぼれ落ちてしまう、描写を一番楽しむべきなんだろうし、実際それくらい面白い。

──ただ、安部公房はファンタジーではないけれど、非現実的な世界を描いてることが多いですよね。

齋藤 確かに現実的ではないんですけど、表現がすごくて、どこかの国ではこれが実際に起こってるんじゃないかと思えちゃうのがすごいなと思いました。

https://otocoto.jp/special/honyomi-otome001/2/

 ほんとうにこの通りでした。ものすごいリアリティ。似たような感じのことを、ドナルド・キーンさんも解説で書いていたように思います。握ろうとしても、そのたびに指の間から流れ落ちてしまうディテール。なんかこれ、砂っぽくない?

 齋藤飛鳥さん、ありがとうございます。

映画『キングコング 髑髏島の巨神』

f:id:mapo_tofu:20170331144545j:image

 TOHOシネマズ渋谷で観た。

─────────────────────

 ※以下、観る前、どのくらいのテンション感だったかのプチ記録です。観賞前に書きました。

 昨日までそんなに観るつもりなかったけど、ストレス発散になりそうだったから、今日、急に観に行きたくなった。 映画のトレーラーみたら、面白そうだった。

https://youtu.be/EmNlKaDeSBc

この島では、人類は、虫ケラに過ぎない!!

 いいですね〜。怪獣、というか動物が好きだったことを思い出した。

 ジョン・グッドマンも出演してるし、『コヨーテ・アグリー』を観た身空としては、勝手に親しみがある。

 もうちょっと待てば、もっと大きいスクリーンで観られるけど、待ちきれないから、やや小さめのスクリーンで観ます。

─────────────────────

 ※以上の文は、観る前に書いた。これからは、観た直後に書きました。

 殴られた。完全に殴られた。殴られた、としか言いようがない。観終わって、映画館出ようとしたら、フラッフラですよ。最高!!!最高だ!!!完全にナメてた。マジでナメてた。ノックアウトされましたよ。そんじょそこらのジェットコースターなんか乗るより、全然こわい。マジこわい。途中で耐えられずに、ヒャッて声が出そうになった。ギリギリで声を出さずに済んだ。ヤバすぎる。早くも今年のベスト映画決定じゃないですか。『キングコング 髑髏島の巨神』。「ストレス発散、ふんふんふ〜」ぐらいの気持ちで言ったら、ほんとうにビックリした。ヒャッ!!!うわッ!!!これは観た方がいいですよ、と思ったけど、「〜したほうがいい」のような比較的なやわらかさをもった言い方はヌルすぎる。観なくてはいけない。観・ざるを得ない。ほとんど定言命法の世界ですよ。定言命法がなにか知りませんが!『キングコング 髑髏島の巨神』。映画館で観なかった方、つまり超大画面と超大音量で観なかった方、という意味ですが、彼または彼女が、ふと2017年を振り返る。『キングコング 髑髏島の巨神』の公開が終わったあと、ふと2017年を思い出す。そのとき、彼または彼女が何を思うか。思い出す、勿論、『キングコング 髑髏島の巨神』を観なかった年として。永遠に取り返すことのできない、時の経過。悔やんでも悔やみきれない自分の胸の奥に刺さったままの棘として。そんな後悔もやっと忘れた、傷も癒えてきた。長い時間がかかった。普通の日常がやっと送れる。なんの疚しさもない、普通の生活が戻ってきた。と、思うのも束の間、短い昼の夢、思い違いから、叩き起こされることになる。『キングコング 髑髏島の巨神』に纏わるすべてによって。いや、そうではない。『キングコング 髑髏島の巨神』とはなんの関係もないはずのものを含んだ全てによって。あらゆるものが、『キングコング 髑髏島の巨神』の影になる。浮かんで消えるだろう。ある晴れた日に並木道を散歩する。心地よい。はずであった。なにかが引っかかる。いつも、どこにいても、自分はなにか罪を犯しているのではないか。それを周囲に気づかれているのではないか。では、その居た堪れなさ、決して安らぐことのない状態、その理由。「そうだ、この木は、コングが投げ飛ばしてヘリコプターを叩き落とすための木だ!」、「缶詰美味しいなあ。でもなにか違う。そうだ、これはギリギリで助かった兵士が食べるための缶詰だ!」。ただ一つ。『キングコング 髑髏島の巨神』を劇場で観なかったことである。「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」(マタイ福音書第7章第13節)。『キングコング 髑髏島の巨神』を観ないという選択の方が楽であろう。しかし、幸運ではないか。今回は、救いへの路も廣いですぞ。

 はあ、ということでね、キングコング観たわけですけども。ちょっとだけ、この映画について思ったことをメモしておきたい。多少ネタバレしてしまうかもしれないが、たぶんしません。

 サミュエル・L・ジャクソンが、不必要に、というか完全に必要ないにも関わらず、コングを殺そうとするのは、やっぱりヴェトナム戦争が泥沼になっていったことにかかっているんだろう。時代設定はヴェトナム戦争が終わりかかっているあたり。自ら必要もない戦争に突っ込んでいって、自ら悲惨な状態に陥る。 

 コングの目がアップになるシーンとサミュエル・L・ジャクソンの目がアップになるシーンがあるけど、コングの方が全然話が通じそうっていうことかな。

 現地人出ないのかな。現地人が造った壁出ないのかな。いままでのキングコングの映画ではあれが好きなんだけど。と思ってたら、バッチリ出てきました。

 ジン・ティエンが超かわいい。もっと話してほしかった。アジア系の美に気付かされた。違和感が全くない。

 ベトナムのシーンもかなり良かった。アジアのゴチャゴチャした感じが好き。

 ブリー・ラーソンも好き。

 みんな好き。

 怪獣のシリーズの第1作目らしいので、楽しみが増えて嬉しいです。

 

  ところで、全然キングコングと関係ないんですが、欅坂46が好きなんです。それで、そのなかでも「手を繋いで帰ろうか」という曲の

ぽっかりと空いたハート

何で穴埋めする?

というところが、振りも含めて、割と病的に好きなんですけども、私は『キングコング 髑髏島の巨神』で埋めました。

 

『岬』

岬 (文春文庫 な 4-1)

中上健次著『岬』文藝春秋、1978年。

 

 表題作「岬」で第74回(1975年下半期)芥川賞受賞。選考委員は、吉行淳之介丹羽文雄井上靖永井龍男瀧井孝作中村光夫安岡章太郎大岡昇平は欠席。受賞当時、中上健次29歳。中上は1946年生まれで、戦後生まれ初の芥川賞作家。さっき知ったんだけど、第75回(1976年上半期)芥川賞の受賞者が村上龍だったというのが意外だった。「限りなく透明に近いブルー」は、もっと全然後かと思っていた。

 文春文庫の『岬』は短篇集で、「黄金比の朝」、「火宅」、「浄徳寺ツアー」(芥川賞候補作)、「岬」(芥川賞受賞作)の四篇が収録されている。はじめに一度、「岬」を読んでから、また本のあたまから読んだから、「岬」は二回読んだ。

 ①「黄金比の朝」

 肉体労働のアルバイトをしながら生計を立てている予備校生のはなし。主人公の下宿先に過激派で左翼活動をしている兄が転がり込んできたり、主人公と兄と隣部屋に住んでいる浪人仲間と一緒に、たまたま知り合った女の人探しを手伝ってあげたりする。はじめの方は、学生運動の時代の浪人生とか大学生の話かあ、そのわりには似たような時代背景の小説とはまた別の暗さがあるし、あんまりピンとこないな、と思ってたけど、女が出てきてからかなり面白くなって、読み終わったら、気に入っていた。というか、この女が好き。

 ②「火宅」

 何処の馬の骨かもわからない暴力的な男と、その男の子である主人公と、主人公とは父親の違う兄のはなし。「黄金比の朝」に似たような設定がいくつかあった。主人公が、自分の幼い娘に、水を汲んでやったり膝に座らせて絵本を読んでやったりするところがいちばん良かった。こういう小さい子どもが愛されている系に滅法弱い。闘鶏のとことかDVのとことかはしんどいものがあった。動物虐待系には別の意味で弱い。(自称)動物の権利派なので。

 ③「浄徳寺ツアー」

 旅行会社に勤める男が添乗員として、老人たちを中心とする一行を引率するはなし。後半で、このツアーの目的がわかるわけだけど、それは読んでみてください。「黄金比の朝」、「火宅」、「岬」の三篇はわりと近い話だったけど、この「浄徳寺ツアー」は違うといえば違った。それでも、中上健次感というか雰囲気は一緒だった。同じ著者だし、当たり前といえば当たり前なことでしかないけど。ほとんど強姦まがいの行為をした翌日、男がちょっと優しげなことを言ったら、女が「あんたって、意外とデリケートでいい人じゃん」みたいなことを言うのは、さすがにどうかと思った。

 ④「岬」

 前の三篇とは、断絶があるような気がします。「黄金比の朝」、「火宅」とはかなり共通する部分があるんだけど、それでも。物凄い作品だと思います。何回読んでもおもしろい。まだ二回しか読んでないんですけど。とにかく、この本のなかではダントツで好きです。うまく感想が言えないので、パッと思いつく気に入ったところをあげます。でも、ほんとうに好きなシーンはもっとたくさんあるんですけどね。それも上手く選べないので。

弦叔父は、コップのビールを、一口ずつ飲んだ。「おれが、判事じゃ。おれが法律じゃ」

 風呂から出てきたステテコ姿の親方が、頭をタオルでこすりながら、わらっていた。

 「叔父の法律は、めちゃくちゃだ」親方が言う。

 「めちゃくちゃなものか。おまえらでも、悪いことして、美恵を泣かしとったら、すぐ死刑じゃ」と、一人でうなずく。

 このやりとりは、ちょっと笑ってしまいます。

「昔にもどりたいねえ」姉は言った。涙が眼にふくらんだ。「昔は、みんな生きとったのに」

 かなしいですね。

 熱を計るつもりか、母が姉の額に手を置いた。姉の眼に涙がふくれあがり、こぼれるのがわかった。

 このシーンもとってもいいですね。

 美恵の子どもの男の子のことも心配になります。家族への愛憎が再生産されてしまうのだろうか。美恵ェ、美恵ェ。

 地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。

 NHKのドキュメンタリー「路地の声 父の声〜中上健次を探して〜」でこの冒頭の文がよまれていて、いい文章だなあ、と思った。それで、読んだ。

この作業で、秋幸が血族のしがらみから心を解き放たれるとき、路地に立つ一本の樹を描写すること。しかも根元から視線をあげて、枝葉から空へと放つこと。駅裏に住む姉の感情が昂ぶり、取り乱す情景には、機関車の地響きや轟音を効果として使うこと。そして、これは芥川賞選考会で、吉行淳之介さんと安岡章太郎さんの評価が分かれたところだが、岬の突端を男根の形に描写し、海に突き刺すように提案したのだった。これを若者らしくていいというのが吉行さん。あざといというのが安岡さんだった。

https://pdmagazine.jp/people/nakagami-kenji/

 参考になります。

『肝っ玉おっ母とその子どもたち』

肝っ玉おっ母とその子どもたち (岩波文庫)

ベルトルト・ブレヒト著、岩渕達治訳『肝っ玉おっ母とその子どもたち』岩波書店、2004年。

 Bertolt Brecht, Mutter Courage und ihre Kinder, 1939.

 

 『三文オペラ』を何年か前に読もうと思ったものの途中で放棄してしまった記憶がある。そのときは、あいだに挿入される歌の曲をいちいちYouTubeで聴きながら読むみたいな面倒なことしてたからほっぽり出してしまったんだと思う。有害な真面目さというか。次は、最後まで読んでみたい。今回はじめて知ったんだけど、ブレヒトの戯曲って、挿入歌がある作品が多いんですね。『三文オペラ』だけかと思ってた。オペラだし。『肝っ玉おっ母とその子どもたち』を読んで、あれっ歌がある、みたいな。曲をまた調べようかみたいな気分にちょっとはなったけど、まためんどくさくなって読むのに飽きたら本末転倒な感じがしてやめた。というか、これもはじめて知ったことで、ひとつの歌に対していくつかメロディーが作曲されて、それぞれ上演されたりされなかったりしたらしいから、別にいちいち曲聴かなくてもよかったっぽい。岩波文庫の『桜の園』を読んだときも思ったんだけど、戯曲についてる訳者解説がすごく参考になった。舞台にするときに役に立つように詳しくしてくれているのかな。観客が登場人物に同化・感情移入してカタルシスを得るような作りの従来の劇=アリストテレス劇に対して、登場人物たちを客観的・批判的にみることを観客に要請する叙事的演劇をブレヒトが生みだしたということは広く知られているけれども、意外にもかなり感情移入できた、というかしてしまった。もっと無機質っぽい劇なのかな〜と勝手に想像してたけど、そんなことはなかった。すこし気になったのは、それでも感動しちゃうんだけど、娘のカトリンのキャラクター造形がかなりステレオタイプな感じだったこと。障害者は完全に無垢で善人だという感じ。と思ったら、ブレヒト自身による演出のための注釈でそうではないこと、例えば、は省略するけれども、がバッチリ書かれていた。障害者だって普通の人間だということがブレヒトがわからないはずはないですね。と思ったんですけど、やはり「健常者にはない僻み」みたいなことが、不正確な書き方かもしれませんけど、そういうことが書いてあった、それは訳注かもしれない、というかたぶん訳注だったのでブレヒトはそう言ってないからブレヒトは悪くないかもしれないんですけど、「健常者」とは違う、という視点はどうかと思うんですよ。「健常者」と同じような精神であるわけだと思うんですよ。だから、「健常者」にも善人がいるように、このカトリンが善人であったとしても全く問題ないですね。やっぱりブレヒト悪くなかった。因みに、あんまり関係ないかもしれないけど、2016年に観た映画のなかでは、『聲の形』がいちばん良かった。この「ちょっとステレオタイプっぽいな〜」って感想をもちながら読んじゃう感じ、叙事的演劇?