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『風の歌を聴け』

風の歌を聴け (講談社文庫)

村上春樹著『風の歌を聴け講談社、1979年。

 

 第22回(1979年)群像新人文学賞受賞作。選考委員は、佐々木基一佐多稲子島尾敏雄丸谷才一吉行淳之介。受賞当時、村上春樹30歳。

 私は『風の歌を聴け』をほとんど偏愛しています。気が向いたときに、何度となく読み返してきました。というほどは読んでないんですが、偏愛しているのは本当です、というふうに自分のなかでは諒解しています。でも、読んでないといったって、今回を含めて四回くらいは通しで読んできたと思う。適当にパラパラとめくってみてもきた。だけど、毎回しばらくして、内容を思い出そうとしても、鮮明にはディテールを思い出せません。なんとなく、読んだときの感傷があるような気がするだけです。夏の終わりの寂しさが、テーマというかなんというかそういうものだと思いますが、その寂しさの印象が、『風の歌を聴け』への私のすべてです。印象でしかないといえばそうなんですが、個別のエピソードの積み重ねが、なにかを完璧にとららえています。スキー場とかそういう旅行先の売店でよく売っている空気の缶詰みたいなかんじです。べつに、なかに何か入っているわけでもないけども、間違いなく、そのときの、感情とか目に入ってきた映像とかを一瞬にしてフラッシュバックさせるような、そういう力があると思います。永遠に・その・時・が・ある。からこそ、何度も何度も再読を誘う作品であるのだろうと。しかし、個人的な問題として一つあるのが、『風の歌を聴け』を愛しているだけで、その後の『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』などなどにつながっていかないことです。私は、根本的に好奇心というか知的向上心が欠如していて、こと生活に関しては非常な保守性を示す性質らしい。無理矢理に一回でも読んでしまえば、もう慣れてしまって楽しめるんだけど、そこまでに心理的な障壁がかなり。ここまでは読んだぞ、と記録するためにこのブログをはじめたので、ここから進んでみたい。強迫神経症っぽいと勝手に思ってます。強迫神経症についてべつに何も知りませんので、妄想ですが。と、いろいろ言ってきましたが、『風の歌を聴け』にも違和を感じる部分もかなりあります。第一、鼻に付くことは否定できませんな。『砂の女』とタイムラグなしに読んだんですけど、『砂の女』と比べると、どうでもいいことをグチグチ言いやがって、と思う部分がかなりある。「ほかのひとのことなんて、どうでもいいじゃないですか」と、ただ働くような姿と比べると、甘えやがってと感じてしまう。『風の歌を聴け』は、若者を扱った小説なんで当たり前かもしれませんけどね。それに、倫理的にどうなんだ、と思うようなところが散見されます。そのなかでも、今回はじめて気づいたのは、中国人のジェイに対する軽口でした。と言っても、小説内では直接ジェイに言っているわけではありませんが。ジェイは中国人なのに「僕」よりも日本語が上手い、みたいなことを言っているわけですけども、話を後半まで読み進めてみると、ジェイは中国には一度も行ったことがないらしい。おそらく、というか確定だと思いますが、ジェイは日本生まれな訳です。それならば、ジェイが「僕」よりも日本語が上手くったって、なんの不思議もないではないか。みたいなことがちょっと引っかかったりしてみたり、自殺の扱いどうなんだとか色々ありましたが、そんな傷は大した問題ではない。私は『風の音を聴け』が好きなんです。